2016年4月16日土曜日

雪国(著者:川端康成)


<本>
雪国
発行日:1947年7月16日 初版発行
:2010年6月15日 145版発行
著者:川端康成
装幀者:Onuki DESIGN
発行者:佐藤隆信
発行所:株式会社新潮社

<感想>
主人公の島村には特質した魅力を感じないが、女は寄ってくる。
恋愛における魅力というのは、客観的な魅力的とは違うのだろう。

私は恋愛に両思いが存在すると信じていない。
恋愛が始まるには、告白する側の人間と、告白される側の人間がいて、告白する側は好きな気持ちでいっぱいだが、告白される側はそうでもないのではないだろうか。多少好きな気持ちはあるが、付き合ってもいい程度のものでしかない。

告白する側と告白される側の気持ちの違いを、私は勝手に恋愛格差と呼んでいる。
告白した側は告白された側をもっと好きになってもらわないと一緒にいることはできないが、逆に告白された側は自分が良いと思えば一緒にいることができ、気に入らなければ振って別れることができる。
このように恋愛においては、告白した側は不利な立場に、告白された側を有利な立場に置かれる。
前置きは以上で、要するに好きだと思って告白した方が恋愛に不利に立たされるのだと言いたかった。

この恋愛格差を雪国の本編に当てはめてみる。
告白をした描写が書かれていたわけではないが、どちらかと言えば、島村が告白した側で、駒子が告白された側である。
本来、島村は不利な立場で駒子に好きになってもらうように頑張らなければいけないのだが、島村は既に妻子持ちであり、駒子との恋愛は不倫で、禁じられたものである。
駒子もそれはわかっているのだが、島村の巧みな操作術で気持ちを揺らされ、好きなようにされている。頭で駄目なことだとわかっているのに、言うことを聞かないで身体は島村の方に向かってしまう。

雪国の楽しさと言うのは、本来告白した側が恋愛不利なのに、しかも妻子持ちで禁じられた恋愛だとわかっていながら告白された側で恋愛有利の駒子が島村のことを好きでいることだ。実に自分勝手なのはわかっているが、人(特に好きな人)を努力も気遣いもなく自分を好きだと思わせ、自分の言う通りに支配できるのは、なんとも楽しい。女性にとっては最悪なのかもしれないが。
もっともこれが小説だからできたわけで、現実にするのは難しいだろう。だからこそ余計に良いと思うのかもしれない。

小説の中で島村と駒子の恋愛なのか恋愛じゃないのか、一線を越えたのか越えていないのかわからない曖昧な雰囲気が続いている。それは恋愛を始めたばかりの新鮮さが長く続いているようにも思える。新鮮なことがいつまでも続くわけがないのだが、全てが夢のような二人の曖昧な関係がどんよりと小説の中に流れているが心地が良い。この感覚はお酒を飲んで頭がぼんやりする時と似ている。何も考えられなくなるが、酔っている時が楽しいように、雪国を読むことも酩酊に似た楽しさを得ることができる。

実社会に対して何かを得るために本を読もうと考えている人や、何かをしなければいけないと強迫されている世界に住んでいる人に、是非とも読んで欲しい一冊である。富や名声とは違った、退廃的で自堕落な楽しさを感じることができれば、湿った布団一つあるだけで幸せだと思うことができるだろう。

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