2016年4月16日土曜日

犬憑きさん 下巻 Part2(著者:唐辺葉介、イラスト:Tiv)

<真琴と歩の違い>
真琴と歩の違いは、真琴は後天性の呪いであり、歩は先天性の呪いなのかなと思った。
真琴は本来普通の人で、管狐に途中で出会い、不思議な物が見えるようになった。しかし、彼女は社会と釣り合いがとれていくうちに緩和され、見えなくなっていった。
歩は元々犬神がついていた。犬神は歩の一部分であり、症状は収まっていったが、見えなくなることはなかった。
この犬憑きさんでは怪異が見えるということを、理屈で説明するところがある。
幽霊のようなものが見えてしまう人は、普通の人とは違う世界を持っている。
人はそれぞれ違った世界を持っていて、その中には基準があり、普通の世界の基準が100までとする。
真琴と歩は100よりも上の世界にいて、真琴は100に近い数字で、歩は100から遠い数字なのだろう。
管狐が見えなくなっていくように戻ることができる人もいれば、この物語の間では戻ることのできなかった人もいる。
小説内に書いてあったか忘れてしまったが。歩の家族は犬神がもう見えなくなっているみたいだった。
そういう怪異は一時だけ見えるのであって、社会と釣り合いをつけて同化すれば、見えなくなっていくのだろう。
その釣り合いは人によって大きな差があって、簡単に同化できる人もいれば、時間が経ってもなかなかできない人もいる。

結局、世界を愛さなければ世界で生きにくいのだろう。世界を愛せなかったヤマヒコと、世界にいなかった歩はある意味で似た部分があって同調していた。といってもヤマヒコは犬神は見えていなかったのかもしれない。結局一部分で同調はできるけど、完全に同じ世界を持った人はおらず、自分の見ている物も人が同じように感じることができないのだろう。

<個人的にわからなかったこと>

ヒノエの存在意義がわからなかった。ヤマヒコ側につく人間もいるということを言いたいのだろうか、彼女の最後もなんだか腑に落ちない。自分の読解力が足りないだけかもしれない。

<最後に>
最初は陰湿な霊的ファンタジーという感じだったのに、数年経って読み直すと大分印象が変わった。
犬憑きさんは個人と社会についての物語のように感じた。
幻想的なことはあらゆる理屈で証明することができて、ただ違うからと遠いものと触れない位置の置くのではなく、歩み寄ろうとする考え方が新しく思えて良かった。
その姿勢を持つ御門も好感を持てた。

社会と釣り合いを付けて頑張って生きていこうというのがエンディングなのだろうか。
どんなに嫌でも世の中に釣り合いを付けていかないと生きていけない。
だが、世の中が正しくない時はどうだろうと思うのだが、大抵間違っているのは自分ってことが多いわけだから、一般論としては正しいのだろう。
もしも、この怪異が見える世界を維持したまま、生きていくことのできる社会を想像してみる。
一人一人の世界で見えないものが見えてしまう。
そのような無数の世界が固まって社会となる。
その世界では人と人との共通認識が難しく、会話などのやり取りが困難になるのが予想される。
だったら、社会というグループの中に入って、お互いが理解し合えるような場所のままでいいのかなと思った。

犬憑きさん 下巻 (スクウェア・エニックス・ノベルズ)犬憑きさん 下巻 (スクウェア・エニックス・ノベルズ)
(2009/05/22)
唐辺 葉介

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